日本臨床発達心理士会滋賀支部

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子どもの世界への眼差し―「いじめ」対策から考えること・思うこと
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                      臨床心理士 山内真澄

     

     子どもが生き生きと生きる社会ってどういうものなのだろうか。子どもが子どもらしく育つ社会に必要なことは何だろうか。

     

     子どもは子ども同士で遊び生活する中で、多くのことを経験している。

     

     6月、畦道で網を構える子どもたち。ザリガニ、アメンボ、カエル、おたまじゃくし、カブトエビ、様々な生き物を探している。しゃがんでじっと水面を見つめたり、生き物が逃げていくのをカエルのように追いかけたり、網を構えてゆっくりと近づいたり、周りも気にせず夢中になっている。その一方で、「その網貸して」「やった、捕まえた」「そこそこ」などと他の子どもとのやりとりがある。時には、人の網を奪い取って喧嘩が始まったり、捕まえた生き物を逃がされて悔しすぎて怒って叩いたり、言い合ったりする。それを仲介しようとしたり、黙って見ていたり、そのようなことは意に介さず自分の好きなことをしている子どももいる。言い合ったら、そのあとはケロっと笑い合っていたり、悔しい気持ちのまま遊びに戻っても再び生き物を捕まえた時には、その気持ちがどこかに吹っ飛んでしまっていることもある。

     子どもたちは自分だけの世界に没入することもあれば、他者との関わりをもつ世界に浸ることもあり、その両方の世界を絶えず行き来しながら生活している。その中で、嫌な思いも経験するが、夢中になるワクワク感、捕まえたときの満足感、子どもたち同士で笑い合う楽しさも経験する。その様々な経験の連続性が人と人とが共に生きることをそれなりに良いものと感じることに繋がっていくのだと思う。

     

     ある公園の一場面。

     低学年の子どもから高学年の子どもまで、何人かの男女の小学生たちがいた。高学年の女の子が蹴ったボールが低学年の男の子に当たる。その時の反応に違和感を覚えた。

     「ごめんな。ほんまにごめんな」と女の子は何度も謝る。「ボールでやり返してもいいで。ほんまにごめんな」と続く。「お母さんに言ってもいいからね。先生に言ってもいいからね。ほんまにごめんな」と謝罪はさらに続いていった。

     子どもたちが集まる場ではよくある他愛もない場面。この子どもの反応を皆さんはどのように感じるだろうか。

     

     私は滋賀県の大津市に住んでいる。大津市は、中2生がいじめを苦に自殺したことを機に「大津市子どものいじめの防止に関する条例」を施行し、市長部局にいじめ対策推進室を設置した。それが2013年2月のことである。国がいじめに関する法律「いじめ防止対策推進法」を作る直前のことだった。いじめ対策推進室の相談調査専門員として私は昨年度まで3年間働いた。

     いじめの定義は変遷を重ね、現在は「相手が嫌な思いをしたらいじめ」と捉えられている。いじめ対策は、いじめの早期発見早期対応のために、学校現場の教員、保護者、地域の人たち、そして子どもたちに、子どものどんなトラブルでも「いじめ」として認識するよう求めるようになった。

     

     こうして、「砂場で砂をかけた」「馬鹿と言った」「蹴られて蹴り返した」など子どもなら日常で起こるであろう数々のトラブルが、「いじめ」として捉えられるようになっていった。教員、保護者、地域の大人たちが、子どもたちの生きる世界から「嫌な思いをする出来事」を抽出しようとすると、その連続性の中にある楽しい、心地よいと思えるような人との関係も奪い去ることになる。「嫌な思いをする出来事」を探し出す大人の眼差しは、子どもが人との関係を育んでいくことを臆病にさせ、生き生きと紡ぎ出す子どもたちの世界を狭めることになっているように見える。

     

    先ほどのボールをぶつけた他愛ない一場面、子どもがボールをぶつけてしまった反応としてはあまりに過剰である。この場面で起こったことも「いじめ」として捉えられることを子どもはわかっているのだろう。子どもたちは日々大人から「いじめはいけない」ことを教えられ、そのことを頭ではわかりすぎている。

    子どもたち同士の世界で起こったその場での出来事は多くの場合、子ども同士の関係性で修復することが可能であるが、背後に大人からの叱責を想定したり、罪悪感を感じたり、その場での関係性が二の次になっていたりするように見える。子どもたちにとって「いじめは日常生活の中でけっして起こしてはいけないもの」になっている。ここで使われる「いじめ」という言葉は、日常のトラブルのことだ。つまりは「日常生活の中でトラブルはけっして起こしてはいけないもの」になっているということだ。

     

     最近、自分がしたことが「いじめ」になっているのではないかと恐れる子どもの声を聴くようになった。初めてそのことを聴いたとき、私自身とても戸惑った。自分が悲しい辛い思いをしたというのではなく、友だちとの関係がうまくいかないというのでもなく、自分のやったことが「いじめ」になっていないかという他者からの評価を恐れている。その場にあるそこでの関係性ではなく、それを見る眼差しに焦点が当たっている。そして、先生や親には伝えたくないと言うのだが、身近な大人に伝えたくない子どもはとても多い。子どもたちがよくあげる伝えたくない理由は「すぐに親に言うから」「すぐに先生に言うから」である。「迷惑をかけたくない」と言う子どももいる。友人とトラブルがあったら先生から保護者にそのことを言われ、友人との関係で悲しい思いをして帰ってきたら保護者が心配して先生に伝えることを子どもはよくわかっている。お互いの思いが煮詰まっていないのに謝罪をさせられたり、クラスで大きく取り上げられたり、望んでいないのに親同士の謝罪の場を設定したり、親が勝手に相手の子どもの親のところに言いにいったりして、子どもたち同士の世界を壊されることに子どもたちは困っているのだ。自分の話をただ聴いてほしい、受け止めてほしい、大ごとにしたくないという時にもその思いは受け止められない。受け止めてもらったら、またそこから子どもたち同士の関係性の中に戻っていこうとしているそんな時にも、大人たちは子どもたち同士の関係や世界に介入しようとしてしまう。

     

     子どもの声が聴こえてこない大人たちは「先生と親が一体となって子どもを守る必要がある」「こんなに連携しているのに」「大人たちはみんなあなたのことを心配しているのだ」と子どもに対する自身の行為に疑問を挟む余地さえない。

     

     大人たちはいじめ対策を早期発見におき、子どもたちにも周りの大人に伝えるように相談体制を整え、「周りの大人はあなたの味方だよ。だから何でも言いなさい」と言う。しかし、子どもの世界から見えるのは、なんでもかんでも大ごとにしてしまう大人であり、自分の気持ちをしっかりと受け止めてくれない大人である。本当に苦しい時、そのような大人に子どもは助けを求めはしない。

     

     そもそも大人たちは子どもの痛ましい事件に胸を痛め、子どもたちを守ってやりたいと思っている。しかし、子どもを守る対策が、その痛ましいことが起こらないようにという点にばかり注がれ場当たり的なものとなり、子どもたちが生き生きと生きる社会を想定できていないことが多い。そのために様々な対策に身を乗り出すのだが、その対策は子どもたちが失敗を恐れ、人との関係を恐れ、世界が狭められていくものになっている。私たちはもっと子どもたちの声に耳を傾けてもいいのではないだろうか。大人がそこでの子どもとの関係性を大事にして子どもの話を聴こうとすれば、子どもはよく話すものなのだから。

     

     子どもたちが紡ぎ出すのびやかで自由な世界を認めることが、私たちにとってどうしてこれほどまでに難しいのだろう。

     

     

     

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